勤務後、赴任校近辺のPrimaryとSecondaryの先生があつまって行っている勉強会というか、研修会へ。NNT、NTの日本語教師の方、およびNTのアシスタントの方、そして、以前教育省の研修会でお会いした、教育省の日本語教育の元締めの方も。テーマはWIKI。WIKIページで、各日本語教育実施校をつなぎ、情報シェア、物品シェア、アイデアシェアなど、相乗効果を生み出していこう、と。おもしろいのは、だれかがWIKIシステムをプレゼンして終わり、ではなくて、「WIKIはこういうものだが、何か意見はないか」と皆に意見を仰ぐこと。そして、各校の立場、自分たちがやっていること、必要としていること、知っていること、ぜひともほかの日本語教育者にも教えたいこと、を次々とシェアしていくこと。中には、知らんと絶対に損する!! ってものもあった。非常にクリエイティブな場だった。NNT、NTの方とも交流を結べ、こちらでまた輪がひろがった。この出会いをたんなる接触ではなくて、意味あるつながりにしていくために、僕は自分から動かなければならない。こっちにきて、この思いは日に日に強まるばかりである。
正直に書く。なんだか不思議な感じだった。僕の母語は日本語とよばれている言語である。日本と名づけられた想像の共同体から遠く離れたこの地で、日本語教育に関して、これほど多くの人が熱い議論を交わしている。この感情を表すのに「嬉しい」という言葉は適切ではない。「変」ではない。「感動」ではない。そう「むずがゆい」だ。なんだな、むずかゆかった。脊髄あたりがむずがゆくなった。なぜだろう。日本語とよばれている言語は、僕という存在から切っても切り離せないものである。それは間違いない。僕の思考の大部分は、日本語によってなされ、僕という存在は共同体の中で、いままで多くの場合日本語で語られてきた。すなわち、日本語という過去何十億という人の声によって構築され、更新され――そしてまた立ち消えてきた――意味によって、僕は規定され、また更新されてきた。なんだか、自分をのぞかれているような、そんな感じがしたのだ。のぞかれている。この感覚はすごく不思議だ。別に僕のことを語っているわけではない。しかし、僕のことが語られてきた、そして自ら語ってきた言語について話されているとき、それはすなわち、僕とは無関係ではないのだ。これは、日本語教師だからだろうか。否、おそらくは、最近の僕の関心ごと――というか思考の中心――が、言語というものにあるからだろうと思われる。しかし、なんとも不思議な感覚だ。日本語教師になるために勉強していたときには、こんなことは感じなかった。
こちらにきて、2ヶ月が経過しようとしている。言語について考える機会、教育について考える機会は数あれど、このような不思議な感覚になるとは少しも思わなかった。自己というものの社会性を認めた段階で、僕は独我の考えを捨て去らねばならなかった。そして、否が応でも共同体に組み込まれてしまう――少なくとも、誰かと通じ合う言語を使う時点で、それは共同体の中に組み込まれていると考えてよい、ただし、共同体とは、先天的に確認されるものではなく、常に後から立ち現れてくるものである――自分を、自分であるがひとりでなく、しかしだからといって自分が自分であることを放棄するわけにはいかない、そう、僕は不安定さを手に入れてしまった。
最近、「添削」をよくする。アシスタントであるから、「添削」の機会は結構多い。添削していて思うのだ。自分が普段話している日本語と、すこし違う日本語に出会ったとき、そこに立ち現れる異なったイメージ。それを直すか直さないかは、学習者の学習目的によるのであるが、たとえば、このような「
間違い」とされる表現をみたことがある(これは、ここでであったものではなく、過去なにかの本でよんだものである)。
私は時間を追いかけたい。
僕は、この表現を使ったことがない。コーパス分析をしたら、おそらく「例文」とよばれるまでに凝固されることはないだろう表現である。しかし、この文章に意味をみいだそうとするやいなや、ここには異なる世界が広がっている。いや、せいかくにいうならば、異なる世界が構築されている。「時間を追いかける」。それを考え始めるや否や、僕はたちまち新たな自分を構築し始める。次の瞬間、ぼくは一寸前の僕とは異なる僕となっている。言語というものは、なんとも不思議なものであることか。むずがゆくなったのは、今日がはじめてだった。