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むずがゆいと感じた日

勤務後、赴任校近辺のPrimaryとSecondaryの先生があつまって行っている勉強会というか、研修会へ。NNT、NTの日本語教師の方、およびNTのアシスタントの方、そして、以前教育省の研修会でお会いした、教育省の日本語教育の元締めの方も。テーマはWIKI。WIKIページで、各日本語教育実施校をつなぎ、情報シェア、物品シェア、アイデアシェアなど、相乗効果を生み出していこう、と。おもしろいのは、だれかがWIKIシステムをプレゼンして終わり、ではなくて、「WIKIはこういうものだが、何か意見はないか」と皆に意見を仰ぐこと。そして、各校の立場、自分たちがやっていること、必要としていること、知っていること、ぜひともほかの日本語教育者にも教えたいこと、を次々とシェアしていくこと。中には、知らんと絶対に損する!! ってものもあった。非常にクリエイティブな場だった。NNT、NTの方とも交流を結べ、こちらでまた輪がひろがった。この出会いをたんなる接触ではなくて、意味あるつながりにしていくために、僕は自分から動かなければならない。こっちにきて、この思いは日に日に強まるばかりである。


正直に書く。なんだか不思議な感じだった。僕の母語は日本語とよばれている言語である。日本と名づけられた想像の共同体から遠く離れたこの地で、日本語教育に関して、これほど多くの人が熱い議論を交わしている。この感情を表すのに「嬉しい」という言葉は適切ではない。「変」ではない。「感動」ではない。そう「むずがゆい」だ。なんだな、むずかゆかった。脊髄あたりがむずがゆくなった。なぜだろう。日本語とよばれている言語は、僕という存在から切っても切り離せないものである。それは間違いない。僕の思考の大部分は、日本語によってなされ、僕という存在は共同体の中で、いままで多くの場合日本語で語られてきた。すなわち、日本語という過去何十億という人の声によって構築され、更新され――そしてまた立ち消えてきた――意味によって、僕は規定され、また更新されてきた。なんだか、自分をのぞかれているような、そんな感じがしたのだ。のぞかれている。この感覚はすごく不思議だ。別に僕のことを語っているわけではない。しかし、僕のことが語られてきた、そして自ら語ってきた言語について話されているとき、それはすなわち、僕とは無関係ではないのだ。これは、日本語教師だからだろうか。否、おそらくは、最近の僕の関心ごと――というか思考の中心――が、言語というものにあるからだろうと思われる。しかし、なんとも不思議な感覚だ。日本語教師になるために勉強していたときには、こんなことは感じなかった。

 

こちらにきて、2ヶ月が経過しようとしている。言語について考える機会、教育について考える機会は数あれど、このような不思議な感覚になるとは少しも思わなかった。自己というものの社会性を認めた段階で、僕は独我の考えを捨て去らねばならなかった。そして、否が応でも共同体に組み込まれてしまう――少なくとも、誰かと通じ合う言語を使う時点で、それは共同体の中に組み込まれていると考えてよい、ただし、共同体とは、先天的に確認されるものではなく、常に後から立ち現れてくるものである――自分を、自分であるがひとりでなく、しかしだからといって自分が自分であることを放棄するわけにはいかない、そう、僕は不安定さを手に入れてしまった。

 

最近、「添削」をよくする。アシスタントであるから、「添削」の機会は結構多い。添削していて思うのだ。自分が普段話している日本語と、すこし違う日本語に出会ったとき、そこに立ち現れる異なったイメージ。それを直すか直さないかは、学習者の学習目的によるのであるが、たとえば、このような「
間違い」とされる表現をみたことがある(これは、ここでであったものではなく、過去なにかの本でよんだものである)。


私は時間を追いかけたい。


僕は、この表現を使ったことがない。コーパス分析をしたら、おそらく「例文」とよばれるまでに凝固されることはないだろう表現である。しかし、この文章に意味をみいだそうとするやいなや、ここには異なる世界が広がっている。いや、せいかくにいうならば、異なる世界が構築されている。「時間を追いかける」。それを考え始めるや否や、僕はたちまち新たな自分を構築し始める。次の瞬間、ぼくは一寸前の僕とは異なる僕となっている。言語というものは、なんとも不思議なものであることか。むずがゆくなったのは、今日がはじめてだった。

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Nando'sは、何度いってもいいね

3連休最終日、今日も雨模様。この週末は、どこのレストランにもいってなくて、かつ一つ行きたいレストランがあったので、友達をランチに誘う。MとYと、今日はじめてあったYの彼氏のN。Mと僕は早めにおちあったので、ちょっと座ってトーク。Mは海外経験が豊富だから、色々と話が弾む。そして、教えてもらったことわざ。昼ぐらいに最寄り駅に集合して、いざ、一度試したかったレストランへ。はい、閉まってました。普段なら月曜日はあいているのだが、祝日で、特別に休みだった…orz


その後、韓国料理がいいなか〜、タイ料理がいいかな〜、とか言って、タイ料理にしようってなって店の扉を開けようとしても、開かない。中をのぞくと空。タイ料理店よ、おまえもか。


じゃあ、インドネシア料理にしようってことで、とことこあるいていると、Mが「あ、インドネシア料理ならそこにもあるよ〜」というので、行ってみることに。たぶん中華じゃないのかな〜と皆自信うすだったが初めての店だったので入ってみることに。メニューを見たら、中華料理を中心として、ちょっとアジア料理も出しますよ、的な感じであった。小龍包、ナシゴレン、シーフード・ライス(?)、マーボ−豆腐を頼むことに。料理はまぁまぁだった。そして辛かった。小龍包は前にいった中華の店よりも、小さいが、断然おいしい。もうあの店には絶対に行かないと心に決めた。


話は多岐にわたり、楽しいランチ・タイムを過ごすことができた。途中Mがおやじギャグさならが、ギャグを連発してきたので、負けじと後半僕もギャグを言う。そして、あとの二人は、ひくw 


D「この前、インドネシア料理にいったんだよ、そこのナンがおいしくて。ナンだよ、このナンって驚いた。」 このギャグとも呼べぬ言葉遊びが、Mのつぼにはまった。

M「オーストラリアには、Nando's(ナンド)という店があります。何度言ってもいいね」 Mも負けてない。


なんだ、大阪と変わらぬ光景ではないかw とりま、よきランチ・タイムであった。 

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■外国語教育に関する覚書■ −−教えることの学ぶことへの従属関係−−

考えたのは、「教える」とは何か、「学ぶ」とは何か。


結論としては、「学ぶ」ことは一人でもできるが、「教える」ことは学ぶものの存在なくしては成立しない。つまり、教えることは、学ぶことに従属しているといえるのではないか。よって、「教える」こと/ひとが、「学ぶ」こと/ひとに先行しない。教師は、教えるから偉いのではない。学校というシステムが、教師という役割をになう人に権力を与えているのであり、「教える」ことや「学ぶ」ことと、教師の権力、学生の教師への従属関係は、別の次元の問題である。「教える」人が、権力的に上である、という認識は捨てなければいけないし、「教えられる」から偉い、ということも必ずしも言えない。


さらに言えば、「教える」という行為が、学習者の「学ぶ」という行為なくして成立しない以上、学習者が「学び」を得ることの無い授業では、教師は「教えている」ことにはならない。何を学ぶとするかは非常に難問であるが。


では、「教える」「学ぶ」とは何か。現代、情報リソースは学習者自ら取得することができる。すくなくともぼくが生活しているところでは。ということは、日本語を学びたい人がいたら、自分ひとりでも学ぶことはできる。自分ひとり、というのは独我論的なものではなく、教師がいなくても外国語は学習できるということがいいたいのだ。僕は日本語教師である。名称ではそう呼ばれている。教師がいなくても学習できる外国語学習において、教師はいった何をすればいいのか。すくなくとも、権力は脱ぎ捨てねばならない。


「教える」「学ぶ」の境界線はないのではないか。


僕は、人に何かを「教える」ということはできないと考えている。日本語の文法を訂正することを「日本語を教えている」というかもしれない。これは、「情報を伝える」とどう違うのか。僕には同じにしか思えない。「教える」というエゴを脱ぎ捨て、教師、生徒というのは役割に過ぎないと見限り、ともに学びを構築するのが、僕がおこないたい授業なのではないか。年齢、思想、経験などさまざまに異なる人が集まる授業(厳密に考えれば、すべてに人はどこかしら異なる。それゆえに、僕は「多文化」「複文化」なる言葉を使用することを拒否している)。「何を学びとするか」はその場で構築され、共有される。そこに、日本語教師という役割にいる僕の立場からどうアプローチできるか、どう生徒の役割をしてくれている人たちと協調し、学びを構築できるのか。僕は、学びとは「意識的変化の永続的プロセス」だと考えている。毎秒、肉体的精神的にどこかしら人は変わっている。毎秒、世界のどこかはかわっている。僕が今日電車に乗るか乗らないか、で世界にはほんとうに些細なことかもしれないが、些細な影響をあたえているのだ。電車で僕を見た人が何かを考えるかもしれない。それによって、行動がかわり、その行動が未来を構築していくのだ。僕らは誰一人世界と無関係ではない。


ともに「学び」を構築する、という前提に立った上で、ではどういった空間にしたいのか、といえば、それはまだ思考中である。僕は日本語教師であるから、生徒が日本語を話せるようになることが至上命令といわれるかもしれない。これは大きな間違いである、と考える。「日本語を話せる」とは、実は実体の無い虚像なのだ。いや、厳密に言えば、その場その場においてしか判断できないことなのである。たとえば、僕がオーストラリアで同僚にあったときに「Hello, How are you?」といい、あいさつを交わす。そしてお互いに仕事につく。僕は英語を話している。この場において、僕は「英語を話せている」と断ずるほか無い。しかし、テレビの英語が聞き取れない。このとき「英語が話せない(正確には、聞き取れない)」と断ずるほか無い。ある場面では英語が話せると断ぜられ、ある場面では英語が話せないと断ぜられる。これ以上でもこれ以下でもない。これでいいのだ。「英語を話せるようになりたい」というのは、実は雲をつかむがごとく、とらえどころのないことなのだ。言葉は具体的な場面においてしか発生しないし、かならずコンテクストを背負っている(僕は、パロールはみとめるが、ソシュール曰くのラングは認めない立場である)。あえていうなら、ネイティブであっても、その母語すべてを理解できるわけではない。


ともに「学び」を構築する。言葉は常に具体的な場面においてしか認められない。言葉は社会的なものであり、意味はその場その場で構築され、更新され、消えていく。これらの前提にたったとき、僕は日本語の授業というフィールドで、いった何をすべきなのか。


僕は、希望観測的行動がきらいだ。「なんとかなるだろう」とか「将来きっと役に立つから」と未来に託す生き方はしたくないし、希望観測的発言を学習の理由にしたくない。「学び」は常にその場その場で構築されるものだ。後から「あぁ、あの時こういうことがあったから、今の僕があるんだ」と思うことはしばしあれど、それは僕にとっては、その場における意味構築の結果であり、けっして過去の行動の普遍的肯定ではない。また、「あぁ、あの時こういうことがあったから、こんなんになってしまった」と思うこともしばしある。今の時点から将来どうおもうかなんぞ、考えても無駄だと僕は考える。これは将来のことを考えることを否定しているわけではない。将来に自分の行動の成否の判定を任せてしまうことの怖さをいいたいのだ。


思考は続く。

外国語教育に関する覚書15:20comments(0)trackbacks(0)
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にんじん調理

天気予報を見ると雨100&。もう雨の日は出かける気がしない。セントギルダのマーケットに行こうとおもっていたのだが、また今度にしよう。おきて色々していると、後輩からSKYPEが。どうやら内定をもらったようだ。うれしい限り(*^_^*) ほんまおめでとう!!


我が師匠が過去に書いたインターネット講座のテキストを読みながら、色々と思考のたび。其の後、選択して、仕事して、スーパーに買いものに。Kから教わったにんじんレシピを試すべく、卵とツナ缶とめんつゆを買いに行くのだ。卵とツナ缶はColes印で買ったのだが、めんつゆは日本食材を売っている店へ。た、高い。6.00ドルぐらいする。ちょっと手がでんわ〜。しゃあなしで、醤油(これもColes印)を買って、まぁなんとかなるだろうと思って帰宅後作ってみる。


結論。ぼくはにんじんの味がしなかったら、にんじんを食べれます。この教えてもらった料理は、どうやらめんつゆが決めてのようだ。醤油代用でも、パンにはさめばコールスローの代用として十分に使えるので、タッパにいれて保存。よし、これで当分過ごせるw


3連休のなか日だったので、ゆっくり過ごしていると、やはりとうか、思考のたびが始まる。

僕の日常生活23:58comments(0)trackbacks(0)
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ヒョー!! な日。

今日から3連休。さて何をしようか。昼ぐらいに起きて、CityでやっているというMooba Fesへ。一通り見て回って、自転車やスノーボードのストリートぱフォーマンスをみながら、ふと空を見上げると、雲の流れが速い。「あ、はやいな〜」と思っていると、肩に水滴が。次の瞬間、ストリート・パフォーマンスの実況をしていたアナウンサーがマイクで叫ぶ、「逃げろ!!」


雹が降ってきた。

http://www.youtube.com/watch?v=IorP_I8zLA8



突然、雹が降ってきたのだ。バ、バババ、バババババババ、って感じ。あたりは騒然となる。逃げまどう人々。泣き叫ぶ子供。雹が1分ぐらい降っただろうか(いやもっと短かったのかもしれないが、僕はそれぐらいだと感じた)、続いて豪雨が僕らを襲う。雹ならばカバンでガードできたのだが(それでも十分にダメージを受けた)、雨は簡便ならん。避難場所をさがして、「こっちだ!!」という声にひかれて逃げ込んだ先は公園にある女子トイレ。もはやこの豪雨では男子も女子も関係なかったようで、両方のトイレが避難場所となっていた。みんなびしょぬれ。写真を撮る人。笑う人。もっていた本の濡れ具合に凹むひとなど。僕はというと、とりあえずプラスチック・バックを出してこれ以上ぬれないように本とかを保護し、雨がやむのを待つ。


少し収まったところでフリンダース・ストリート駅へ。メルボルンの天候は変わりやすいので、もしかしたらちょっと待ったらまた晴れるんじゃないか、と希望観測的にちょっと待ってみるが、ぬれた服では風をひいてしまいそうで、帰宅することに。が、問題が。切符がぬれてしまったのだ。改札機に通せない。入り口で、クネッと曲がるw Dailyできたので、カードの裏には今日の日付が記載されている。それを駅員にみせて改札を通してもらい、とりあえず帰宅。


テレビをつけると、どうやらCityは水没したようだ。友人曰く、ちゃっちいファースト・フードの店は浸水した模様。ところどころの家で水漏れが。雹で車のフロントガラスが割れた人もいたようだ。とりあえず、僕にとっては、貴重な体験となった。

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寝袋購入

Secondaryでの水泳大会。最初は、自分の学生時代の水泳大会との違いを発見するごとに興味・関心をかきたてられた。水泳大会というよりは、水で楽しく遊ぼうの会? 写真をみせることができないのが残念なのだが、僕の学生時代の水泳大会と、それこそ180度ことなる。


そこで、某大学から教師になるためのプログラムできてはるSに出会う。なんと、日本でニアミス(某フェアウェルパーティにて)していたことを知り驚く。S、僕のつたない英語で長時間話をしてくれてありがとう。



帰宅後、すぐに電車に乗る。なぜかというと、ネットの掲示板で見つけ購入依頼をした寝袋を受け取りに行くためである。Ringwoodという駅まで。寝袋は、$44で購入した(らしい)ものを、$30で買い、ついでに本を$4で2冊買う。計$34.00.電車賃あわせて、$36.80 で寝袋(-5℃)と本2冊、塩昆布をゲット。布団が無かった部屋が、ばら色に。ようやくぐっすり寝れますw 最近朝晩冷え込むことが多くなってきたから、ほんと良かった。


さて、明日から3連休。1日は洗濯やら、やらねばならぬ仕事やらがあるので、それに費やすとして。後2日を如何に過ごすか。来週・再来週とセミナーがつまってるし、その次の週はサイクリング・キャンプ!! そのキャンプから帰ってきたら2週間の鉄道旅行に出発。タイトなスケジュール。そして、週末は、そうレストランで食事をする日。平日抑えた出費を解放するのだ。さて、どこに食べに行こうか。$10-15あたりを狙っているののだが。


ネットで色々調べると、明日はフェスティバルがあるそうな。見聞を広めるために、ちょっと足を運んでみようと思う。おもんなかったら、ドックランズのOUTLETにいって、キャンプ&鉄道旅行用の安い服を仕入れにいこう。 

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怒られた。

本日はPrimaryでの勤務。Primaryでは、昼休みできる限り生徒たちと遊ぶようにしている。僕自身、もっと生徒たちと仲良くなりたいからだ。で、昨日にひきつづき、気がつけば追いかけっこをしていた。しかし、今日は数人のボディーガードがついて(数名の男子が僕を追ってから守ってくれたのであるw)、追いかけっこも長期戦に。フィールドも学校全体を駆けずり回った。気がつけば、そこそこの人数が加わるチェイスとなる。5歳から12歳までがいる学校である。そうなると、まぁこけたりする子もでるわけで。グラウンド・キーパー(休み時間に校庭を監視する役目の先生、持ち回りで担当してる)の先生に、「遊ぶのはいいけど、人数が多くなったらやめなさない」と怒られたw こっちに来る前に予想したとおりになった。僕は先生として生徒を怒ることはなく、逆に、生徒と一緒に先生に怒られることがほとんどだろう、とw


昨日、友人からまさかの「にんじん料理レシピ」をいくつか教えてもらった。中にひとつ気に入ったものがあったので、ちょっと作ってみようと思う。これがもしもはまれば、メルボルンでにんじんが好きになるという、革命が起こるのだ。


明後日から3連休。僕はメルボルンでどんなイベントがあるか、日本語のサイトで主にチェックしていたのだが(もちろん詳細情報は現地のサイトになるので英語であるが)、どうやら、もっといいサイトがあるみたいだ。今日上司から教えてもらったのだが、掲載されている数が圧倒的に多かった。今後は、このサイトを利用しようと思う。さっそく明後日、明々後日とイベントがある♪




さて、久しぶりに、外国語教育に関してダラダラと(興味ない方は読まないほうがよろしかろう)。


僕は、最近「やる気」に関心を抱いている。どんなによい教授法があっても、本人がやる気ないならあまり意味が無い、というのが僕の前提となる考えである。で、ここから出発して、2つのことを考えている。1つは自分の今後のフィールド。1つは「やる気」とは何ぞや、ということ。


まず、「やる気」がある人だけやればいいやん、っていう考えが100%ではないのだが、僕の中にはある。長くない人生、やりたくもないことをやることよりも、やりたいことがあるなら、そっちをやったらええと思う。外国語に関して言えば、確かに世界の動向として、複数言語学習・習得はもはや当然のこととなる勢いである。ただ、僕の経験上、外国語学習はそんな楽なもんではない。やる気がなかったら、高校英語さながら、地獄と化す。やる気がないならやらんかったらいい、という考えがあることを僕は自覚している。


だがしかし、2つ目に関連するのだが、じゃあ「やる気」ってなんだ、って言われると困るのだ。「やる気がある」状態と、「やる気がない」状態の境目はなんなのか。なにをもって、区別できるのか。そもそも、あるーないで区別していいものなのか。「やる気がある」「やる気がない」という状態は、普遍的に存在するものではなく、どういう状態をそう認識するのかは社会的に構築されて物であり、毎秒変化していると考えてよい。さて、今まで僕はいろんなことをしてきたが、「やる気」が先にあって、それから実行したことは、最近になってこそ増えたが幼少時代を思い返すとほとんど無かったように思う。「やる気」があって何かを始めることは、稀であると僕は思う。


そもそも、「やる気がある状態」とはなんなのか。「やる気」は目に見えない。観察不可能である(そもそも、純粋な「観察」ということに対して、僕は100%の信頼をおいていない)。でも、「わかりません」では研究ができないので、じゃあどするかというと、言説分析を僕は選択する。「やる気ないわ〜」って言って自分で自分は「やる気が無い状態である」と認識する。「やる気が無い状態」とはどういう状態をさすか、それは関係性の中で構築された意味によって決まり、その意味を自分に反映させる。「やる気が無いわ〜」って言うか思うかする、ということは、「やる気がありますか?ありませんか?」と問われる(意識している、していないに関係なく)状況にあるということである。


はて、僕は何を考えたかったのか、迷路に迷い込んできた。


僕はいま無償に英語を勉強したい。強くそう思っている。なぜか。話したい人がいる。話したい内容がある。状況が、ぼくをやる気にさせている。というよりも、「何か」を「得たい」という欲望が生まれている。それを得れたかどうかを確認できる状況にもいる(話したい人と話せたらOKであるから)。具体的な目標と、そこにたどり着くことを「良し」とする自分の考えが、ぼくをやる気にさせている。言い換えれば、マイナス発信なのだ。話せない状況(−)を脱出するために、僕はがんばっているのではないだろうか。負の状況、すなわち、満足していない状況、自分が何かを渇望する状況などがあって、僕は自己を変化させる気になっている。 

僕の日常生活22:43comments(2)trackbacks(0)
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人としてやってはいけないことをやった日

今日は、人としてやってはいけないことをしてしまった。


Primaryに勤務の日の昼休み、僕は生徒と校庭で遊ぶ。Staff Roomに近い場所で数人の女子生徒と遊んでいると、ある少年がやってきて、僕に彼が書いた絵をくれるという。どうやら忍者の絵を描いたようだ。結構うまい。至極幸せな気持ちになった。で、少年は僕にプレゼントを渡すと去っていったので、引き続き生徒たちと遊ぶ。なにやら鬼ごっこのような遊びを教えられ始めるも、途中から格闘ゲームになり、もはやカオス。そこへどんどん生徒が集まってきて、大おっかけっこに発展w 校庭中を走り回る。きがつけば30人ぐらいにおいかけられていた。


で、昼休みが終わり授業が始まって気がつく。あ、プレゼントをベンチにおいてきたままだ、と。鬼ごっこで追いかけるときにまげたりしないようにベンチにおいていたのだ。そのまま校庭中を走り回ることになって、昼休みが終わり教室に入ったので、取りに行く時間が無かった、というのは言い訳にしかなるまい。で、「あぁ、、、授業終わったら取りにいかな」と思っていると、なんと僕にプレゼントをくれた少年が授業中に教室に入ってきて、僕に渡すではないか。どうやら少年は校庭で体育の時間だったらしい。想像に難くない。少年はベンチにあるプレゼントを見つけたに違いない。僕は人として、やってはいけないことをしてしまった。僕には謝ることと、言い訳することしかできなかった。後の祭りでしかないのに。


帰宅後、いろいろと雑務をして昨日持ち帰ったカレーをナンと食パンとともに食べる。ピーマンかなと思ってたべた緑のものが、巨大とうがらしで、途中で気づいたけど「いけるやろ〜」って思って食べたら、無理やった。ヒーハー!!


昨日書いた「Tiger Airways」。今日もういちど確認してみると、なんとSaleしてたw Lowest Priceですら十分安いのに、そこからさらにSale Priceに。もちろん一番安いものを予約。結果、Adelaide-Melbourneを$44.00(チケット、fare、charge、e-booking cost:$6.00含む)で取れた!! これなら空港までの交通費を合わせても最安。しかも、1H15Mしかかからないのだ。サービスはよくないと聞いているが、そもそも望んでいるレベルが低いのでたぶん大丈夫。

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インドネシア・レストラン

インドネシア・レストランめっちゃうまかった。


今日は勤務校の外国語の先生方で食事会(どうやら僕の歓迎会も兼ねていただいていたようで。うれしい限りである)。授業終了後、新しくできた外国語用の教室のレイアウトを手伝って、インドネシア・レストランへ。皆で食べられるコース料理にしたのだが、BYOとはいえ、オントレ、魚と鶏肉、カレー4種(ライスとナン)、デザート、チャイで$31。このレストランはもう一回きてもいいって思った。サービスも、店員の対応も、スマイルもかなり素敵であった(ちなみに、僕はみなさんにご馳走していただいた)。カレーがあまったのでパックにつめて持ち帰りに。これも頂いてしまった。明日のランチとディナーになること間違いなし☆


メルボルンは、ほんといろんなレストランがある(我が友曰く、アデレードがオーストラリアいちレストランの数が多いらしい)。エスニック料理の種類半端ないし、フランス料理やイタリア料理の店ももちろんある。そりゃ払えばいいものが食べれるが、$10-15で十分食べられる。毎週、週末を外食デーとしている僕にとって、おそらく同じ店にいくことはあるまい。なにせ、それだけ豊富で、それだけ飽きさせないのだから。Sさん、僕は飯におぼれますw


さて、旅行の計画に変更の兆し。こんどのスクール・ホリデーで、MelbourneからAdelaide、そしてParthへ鉄道のたびをする予定であるが、帰りは鉄道の運行日時の都合上、AdelaideからはGSRパスを使えない。で、夜行バス(Fireflyが安い、$60-65)を使う予定だったのだが、旅上級者の上司に僕のプランを話したところ、「いや、飛行機のほうが安いで」と。どうやらTiger Airwaysが最安らしい。調べてみるとAdelaide-Melbourneで$58-ある。しかし、空港までの交通費などを考えるとどうしたものか。安く行くのがMy ポリシー。明日もう一回考えよう。

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大人の階段をのぼった日

ところ変われば、いろんなものが変わる。そして今日は僕に激変がおこった。


朝おきたら7:30.さっさと着替えて片道30分歩きの通勤路へと急ぐ。まっすぐなので寄り道とかして気分転換するすべもなく、ただまっすぐ歩く。さすがにもう慣れてきた。


今日は3コマ.2・3・4限である。1限は空きコマだったので、前々から取り掛かっている教科書のボキャブ・フレーズリストを作成する。別に作れといわれているわけではないのだが、僕にとってこれを作らないことにはどうしようもない。スピーキング相手となることがほとんどである僕にとって、学習者の既習・未習事項を把握できていない状況は、ありえない。どういう風にまとめればよいか、という完成図(つまりはリストの使い道)がようやく見えてきたので、最近時間を見つけてはせっせと作っている。これがきっと後の僕の財産になると思う。


さて、2・3・4限と仕事を済ませ、今日はさっさと帰宅。其の途中うれしいことがあった。中学1年生の子が、僕に話しかけてくれて、少し一緒に歩きながら帰ったのであるが、なんと、得に何の問題もなく英語で会話できたのだ。内容はさして専門的なものでもなければ、マニアックなものでもない。いや、マンガの話だったからマニアックなのか。逆に背景知識があるから話ができたのか、(たぶんそうだと思う)。僕は外国語がすこぶる苦手である。外国語が口をついてでてくる「自動化」なる状態にたっしたことがない。ただ、最近、すこしその兆しが見える。あたまで言いたいことを考えて、口から英語が出てくるスピードはたぶん速くなってる。外国語学習研究者として、今の自分は格好の研究材料であるw


買っていた食材が尽きたので(パスタだけはあるが、具材がなんにもない)、スーパーへ。ところ変われば、値段も変わる。かつて我が友が言った、「もやしをなめたらあかん。一人暮らしにとって、もやしは最高だぜ」と。がしかし、それはメルボルンではあてはまらなかった。もやし、ちょ〜高い。1パック、20円ぐらいで売っているとおもっていたのに、$1.99.180円くらいなんですよ。買えません、買えません。その代わりめっちゃ安いものがある。今まで見向きもしなかったのだが、先日同じくAUSで働いている友からおしえてもらった。そう、「にんじん」が安いのだ。今日はSpecial Priceって書いてあって、8本ぐらいはいって1.15.100円ぐらいである。


平日はPOOR.其の分休日おいしいものを食べる。それが今のスタイルであるからして、この「にんじん」を手中に収めることができるとかなり強力な味方となる。そして、買ったのだ。この僕が、にんじんを自らの身銭をはたいて買ったのだ。大人の階段をのぼった瞬間である。



まさか自分でにんじんを調理する日がこようとは、、、。
まだまだ、腕が足りない。にんじんをもっと味方にせねば。


さて、3月末から4月の1週目ぐらいまでの、メルボルン-アデレード-パースの鉄道のたび、どうやらアデレードで、人生初の「ドミトリー」に泊まることになりそうです。

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